吉田修一『国宝』を読む

読書

吉田修一の『国宝』を読みました。2017年から朝日新聞に連載されたのち、2018年に上下巻で朝日新聞出版から出版されています。

まず読み始めて、その文体にびっくりさせられました。たとえば出だし。

その年の正月、長崎は珍しく大雪となり、濡れた石畳の坂道や晴れ着姿の初詣客の肩に積もるのは、まるで舞台に舞う紙吹雪のような、それは見事なボタ雪でございました。

「ございました」? 「です」でも「だ」でも「である」でもなく、「ございました」。30年前の大河ドラマの語りかよ、とびびりました。ただ、読み進めてみて、この文体にはとても意味があるのだと思いました。

本来、小説の楽しみというのは、主人公や登場人物の人生を追体験して、自分のことのように感じることだと僕は思うんです。これまでの吉田修一の小説の多くも、いわゆる市井の、僕らの身近にいるような人が主人公になっていましたし、その人生を追体験する楽しみがありました。

ところが、この小説の主人公は、歌舞伎役者です。きわめて特殊な主人公ですから、もちろん主人公の立場になりきって読み進めるのですが、感情移入しながら読み進めるというよりは、どちらかというと伝記や歴史ものを読むように、一歩引いたところから主人公を眺める形になると思うのです。

「ございました」の文体は、その距離感にぴったりなのだと思ったのです。小説を読みながら、僕らは普段の僕らの世界とは別の世界を体験する。ただ、それは主人公の視点を追体験するというよりは、主人公のストーリーを少し離れたところから時に近づき、時に遠ざかりながら体験する。たぶんこの文体は、その距離感を出すために選ばれたのかな、と思いました。

また、特殊な主人公ゆえ、ちりばめられたエピソードもまた破天荒。付き合っていた女2人は捨てることになり、最終的には歌舞伎の大御所の娘と政略的に結婚。捨てた女が生んだ娘は、ほぼほぼ子供時代からの乾分が育てている・・・。と現代のコンプライアンスからするととても許されないエピソードだらけで、感情移入しながら読めるものではないんですよね。客観的にエピソードを眺めないと、楽しめない。ただそれもやっぱり歌舞伎役者という特殊な主人公だし、むしろ芸事には真摯に向き合う主人公の姿を、相対的に際立たせるようなエピソードになっているのかな、と思いました。

あと、個人的には、自分の無知を恥ずかしく感じた部分もありました。日本を代表する文化でありながら、歌舞伎に関しての知識が僕には全くないのです。もちろんそういう人にもわかるように、たとえば出てくる歌舞伎の演目はストーリーが丁寧に説明されているのですが、それでもその演目を良く知っている人に比べると、自分が理解・想像できている部分はごくわずかなのではないかと思いました。ちょっと残念だし、恥ずかしいなと思いました。

上下巻の長い小説ですし、とっつきやすい身近な物語ではないので、万人に勧められる本ではありません。ただ、なんとなく別世界を体験してみたい、そんなエネルギーのあるときにお勧めしたい一冊です。

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